平成18年 2月アクティビティ
2006.02.28
雪またじお助け隊出動(ボランティア事業)

例年にない大雪が昨年12月から降り続けた本年度は、本クラブ初めての「雪またじお助け隊」を結成しました。雪またじをしたくてもできない独居老人、公共施設を対象にしております。

2月24日(金)に要請のあった高山市西小学校の公衆電話ボックスの掘り出しなど2箇所を行いました。公衆電話ボックスには、道路除雪による雪が約2メートルの高さまであり、ドアも開けない状態でした。
交通量の多い交差点でもあるため運転者の見通しも悪く危険でした。

本クラブ会員の他、様子を見ていた近所の方も応援して頂くなどの結果、大型トラック3台分の雪を除雪する事ができました。御協力頂いた方々、改めて御礼申し上げます。

西小学校 泉孝一校長先生から「PTAと職員だけではできなかった除雪ができて助かりました」と言って頂けました。

2006.02.28 15:33 | 固定リンク | 平成17年度
平成18年 2月第2例会
2006.02.15
第2例会 長期在籍者表彰・会員スピーチ例会

2月15日(水) 12:15~
会場:ひだホテルプラザ

本日は長期在籍者表彰と寺地L.によるスピーチがありました。
演題「飛騨の歴史は面白い」
寺地L.のスピーチ概要は例会報告のあとで・・・

【例会報告1】長期在籍者表彰
 45周年 L.平田信雄  L.井之丸良平
 35周年 L.稲葉慎之助 L.玉腰善十郎
 30周年 L.板屋 明  L.和田茂美
        L.室崎希次  L.長岡功
 25周年 L.田近重信  L.荘村喜七郎
 20周年 L.美濃正治  L.古守眞夫
 10周年 L.柚原雅樹

【例会報告2】特別事業「雪またじ助け隊」について
 例年にない大雪で雪の片付けに追われている独居老人や高齢者のみの家庭では、思うように処理できず、当クラブで除雪のお手伝い奉仕を計画しました。
 実施日 2月下旬
 場 所 西小区域
 内 容 軒下や水道メーター等の雪の除去
 方 法 新聞等で希望者を募る

【会員スピーチ】
 発表者  L.寺地亮平
 演 題 「飛騨の歴史は面白い」
 
寺地家はおじいさん、親父、私と代々考古学が好きな一家です。私も生れた頃から土器・石器が家の中にあり自然に触れ合ってきた。小さい頃は親父と休みのたびに土器を拾いに田んぼ、畑に出かけた。親父にはとにかく見て落ちている物は拾えと習った。
昭和38年ごろ、丹生川(現大野山ゆり園)のあたりで土壌整備をブルトーザーでしておりよく土器を拾いに行った。中学生のころ赤保木など自転車で行動半径を広げて拾いに行くようになった。雨上がり、雪解け時には土器がよく出てきた。
ある雪解けの春、風土紀の里の裏の畑でいつものように歩いていると、人の顔の形をした土偶を見つけた。親父に見せるとなんと29年前に親父が同じ場所で拾ったという土偶と破片がぴったりと合った。こんな奇遇なことがあるんだなと二人で驚いた。その土偶は現在関市の美術館に展示してある。これが一番初めの大発見だった。
その後石の冠(石冠)も発見! これは飛騨では良く見つかったものだが、中でも最も大きいものだった。
中学では地学部に入部し、化石に興味をもった。その頃は石灰岩の小さい大豆くらいの大きさの「ふずりな」の化石を採取した。主に岩滝・丹生川・高根でよく取れた。福地温泉付近では三葉虫の化石などが取れた。
 
個人的には縄文時代(紀元前1000年)が好きです。当時の人は現在で海抜2000mぐらいの所を移り住んでいた。そこで槍の石器を使用し、動物を採り「焼く」か「生」で食べていたようだ。
江名子では1000年ぐらい前のお墓がでてきた。綺麗な状態のお墓で中には彫りの入った綺麗な玉が入っていた。多分当時では位の高い人だと思う。
ある日ピンク色の綺麗なUFOの形をした土器が出てきた。S字と波型の模様の細工がしてあり、中には墨が入っていた。それは関東地方で多く発見されたものだった。なんでこんなものが飛騨で見つかったのか?飛騨と関東の交流がそのころからあったのだと思う。縄文時代の遺跡は東の方に多かった。当時日本は広葉樹が多かったが、東は木の実がついたが、西はつかなかった。稲作がなかったこの時代では東の方が栄えていた。もちろん飛騨には木の実が豊富だったことから食物に関しては住み易いところだったようだ。その後の時代になると「皿」の土器が出現し、調理方法に「煮る」が加わった。「アクだし」ができるようになった。皿の土器は飛騨だけでも150箇所で発見されている。
 
弥生時代になると農耕が発達し、だんだん高所から低所に移り住むようになってきた。飛騨の上野平などでは1箇所に20件ぐらいの集団で居住する集落も見つかっている。その居住形式が現在でも飛騨で5箇所ぐらいあり、白川郷でも見られる「助け合いの精神」が根強く生きている。
飛騨は昔から自然と共生しており、楽しみも、脅威も木や石とともにしてきた。歴史はこの時代から創生と破壊を繰り返していくが、破壊の時代にある現代は縄文時代を学ぶ事により、自然との共生がいかに大切かを強く知る事ができる。

2006.02.15 15:31 | 固定リンク | 平成17年度
平成18年 2月第1例会
2006.02.01
第1例会 節分例会

2月1日(水) 12:15~
会場:ひだホテルプラザ3F

本日は節分例会を行ないました。七福神を引き連れ、年男、年女による豆まきが行われました。鬼は外、福は内。一年の無病息災を願いました。

 【例会報告1】
・会長L.東 盛義が、LCIF(CFFⅡ)$1,000献金をされ、ライオンズクラブ国際会長L.アショク・メータ及びLCIF理事長L.クレメント・F・クジアクより「盾」と「ラペルピン」が贈られました。
 
 【例会報告2】
・災害御見舞のお礼
 昨年秋にインド災害義援金を全員の方から頂き、キャビネットに送金したところ、LCIF理事長L.クレメント・F・クジアクより礼状が届きました。

 『鬼は外、福は内!』
今年の年男・年女は、L.東 盛義、L.日下部洋子、L.辻井重則(七福神:恵比寿神)、L.古森眞夫、L.荒井義匡、L.平野重彦、L.桑山尚三、L.洞口茂の方々です。七福神を引き連れ豆まきをしていただきました。皆さんに福来たる!

【暦と天文の雑学】

節分とは
 元来、節分とは「季節を分ける」ことから「節分」です。現在では節分といえば立春の前日だけを指すようになりましたが、季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日はいずれも節分なのです。
 現在のように立春の前の節分が特にありがたがられる理由ですが、旧暦の時代では「立春正月」などといい、一年の始まりを立春付近に求めたことから、その前日は年の最後の日という意味合いを持ったと考えられます。このように年を分ける「節分」ということで他の3つの節分より重要な位置を占めたのではないでしょうか(旧暦でも本当は「立春」が必ず正月にあるわけではありませんので、この点はご注意ください)。

節分と豆まき
 節分の日には、炒った豆を年神に供えたあと、その豆を年男(その年の干支の生まれ)が「鬼は外、鬼は外、福は内」呼ばわりながら蒔きます。このとき蒔かれた豆を自分の年の数だけあるいは、年の数+1だけ拾って食べ、一年の無病息災を願う風習があります。
 この「鬼は外」については、中国から渡来し宮中で行われていた「追儺(ついな)」の行事と寺社が邪気をはらうために行った「豆打ち」の儀式が融合したものだといわれます。追儺は「弓矢などで悪鬼、厄神などを追い払う行事」で、年の暮れに行われていました。豆打ちは豆まきともいわれ、その言葉通り豆やカチグリを蒔いたもので、節分の日に行われました。

なぜ豆を蒔く?
 穀物や、果実には「邪気を払う霊力」があると考えられており、豆を蒔くことで豆の霊力により邪気を払い、福を呼び込むと考えたのでしょう。
 豆とは違いますが、イザナギが黄泉の国の亡者を追い払うのに桃を投げつけるなどの神話も、穀物や果実の霊力によって邪気を払うという点で同根の話でしょう。

2006.02.01 15:29 | 固定リンク | 平成17年度

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